ダマタイ

騙されて(語弊)タイに出向になった私の奮闘記

戒厳令の布告

タイで戒厳令が布告されました。*1

前回の布告はクーデター時ということで、
軍側も気にしてか「クーデターではない」と発表していますが、
まぁどうなっても不思議ではないなぁと駐在員としては捉えています。

何もないだろうけど、正直何が起こっても不思議じゃない。
そんな感じです。 だってタイだし。

現在のところ、影響が出ていると聞いているのは下記のとおり。

  1. テレビ局が占拠され、報道が規制されている。
  2. 一部道路で軍により道路封鎖が行われている(らしい)。
  3. デモ隊に対し、会場から出て行進等行うことを禁ずる。
  4. 各地に軍の駐屯所ができた。

正直日常生活には全くといっていいほど影響が出ていない状態です。
むしろ、デモ隊の行進を規制してくれるおかげで
変な渋滞が発生せずに済むのがありがたいぐらいでしょうか。*2

とりあえず、今のところは落ち着いている……という状態ですね。

何か動きがあれば記事に残そうと思います。

*1:戒厳令をしくというのはどうも間違いらしいですね。

*2:普通の渋滞は日常茶飯事ですが

ダマタイ 振り返って

結局、なんだかんだ過ごしながらどんどんプロジェクトが進んでいくのだが、
自分の立ち位置がわからないまま、*1
何をすればいいのかを自分で考えざるをえない状況に追い込まれていた。

当然何をするべきかわからない。
右も左もわからない。 それどころか前も後ろもわからない。 できていたことさえできなくなる。
連日「え、そこも私がカヴァーするの?」という思いに囚われながら仕事をしていた。

チームリーダーであり、課長であり、担当者でもあるというのがしばらく続き、
私のモチベーションとか気力とかそういうものがごっそり抜けおちていったのはこの期間である。*2
上長には「部下のモチベーションを上げることを考えろ」と言われ、
心の中で「あなたが出来ていませんが?」と即座に思うほど鬱屈としていた。

そんな心中が顔にも出ていたのか、「生気がない」だの「発想が貧困」だの「週末はちゃんとリフレッシュしろ」だの「酒を飲め」だの散々ないわれようをしていた。*3

タイスタッフには「仕事場がすごく好きな人」「仕事場に住んでる」とか揶揄されていたらしい。
まぁ、オープンクローズ*4だからね、しょうがないね。 サーバ無いと仕事できないしね。

敢えて言えば、働かなくていいなら働かない。 私は働きたいわけではない。
仕事を辞めれば自分が圧倒的クズになると自覚できているから働いているだけだ。
後ろ向いて後ろ向きに歩いているのが私である。

本来ならば試行錯誤してこんな状況を改善するべきなのだが、
私にはその気力が持てなかった。 忙殺されていた。 週末は電池が切れたように落ちていた。

結局のところ、今でも改善できていない

ただ少しだけ意識は変わった。
いかにして自分を管理する側に置くか。
仕事の分類分けをし、人に任せるにはどうするか、どこまで任せていいか。
そういうことを考えてやり始めなければならないと意識改革が始まってきたのである。

今でもうまく行っているとはいいがたいが、前に進んでいきたいと思う。

組織について、人について、金についてと考えることは色々あるのだが、
そういうことに目を向けられるようになるまで、最初の出張から既に半年の月日が流れていた。

未だに当たり前の解決方法を全く思いつかなかったりしている。
どうすればなれるのか、ちゃんと経験としてつみあがっているのか、
そんな不安ばかりが過ってしまい、また精神衛生が悪くなっている今日この頃。

結局会社から補助が出る勉強費は一銭も手を付けないまま期限切れになった。
英語の授業受けていたら、気が紛れただろうか。 それとも壊れただろうか。

今では知る由もない。

*1:よく一つ上の立場でモノを見よという話があるが、私は二階級特進である。

*2:最近はこの仕事向いてないなと思っている

*3:仕事が終わらないので週末は販売・購買担当の仕事をせざるを得なかったのだが。

*4:07:30までに事務所をあけて、大体20:00過ぎに事務所を閉めて、さらに土日の片方はいる状態だった。 今は少し改善。

ダマタイ その経緯 2

というわけで大体騙された感じでタイ出向になった私だったが、
もちろんまだ騙されたことに気づいておらず、とりあえずタイ出張として初訪タイとなった。

結論から言うと、何も待ち受けていなかった
一足お先に出張できていた日本人の先輩と、
既に雇用されていた数人のタイ人スタッフはいたものの、それだけである。
私は今回のプロジェクトについてもよく知らず、また私の役割についても知らず、
さらにはこの出張も何が目的なのかすらもさっぱりわからないままだった。
呑気に「タイに行けば何か説明があるだろー」とボケーっと構えていた。*1

こちらに連れてきた張本人(現上長 今後は上長と記載する)については忙しくしており、
簡単な指示は飛んでくるものの相変わらず全体像は見えないまま過ごすことになった。

日本から資料を取り寄せたり、
タイ人に四苦八苦しながら仕事を頼んだり、
日本の開発ソリューションについて説明したり、
プログラム言語について手ほどきしたり、
一応最初に飛んできた簡単な指示をこなし切って最初の出張は終わった。

上長に締めくくりとして「タイはどうだ?」と聞かれ、
「食べ物はおいしいし、水が透明ってぐらい設備はいいですし、なんとかやってけそうです。」と答えたところ、
満足そうに「まぁバンコクでダメだったら海外は全部ダメってぐらい良いとこだよ。」との返答をもらった。*2 *3

ここまでは無難だったと思う。 出張ベースでの下地作り。 疑う余地はまだなかった。
とにかく、一回目の出張は特に問題なかったと思う。

すぐに二回目の出張となるのだが、この辺りから徐々におかしくなっていく。
そもそも期間が3週間。 長い。 にもかかわらず何をするのか全体像が見えない。
上長以外に誰もメンバーがおらず、日本にいる間はとりあえず次の出張で困らないように資料を準備しておくことがメインだった。

その出張中、日本から私経由でタイ人に指示を出すことになったり、
何故か購買・販売処理の書類を作ることになったりしたのだが、それでも私は業務をこなしていた。
*4
こういったことからうすうす「もしかして」という考えが膨らんでいくのだが、
「引っ越しとか終わったの?」という上長からの言葉で決定的なものになる。

「ああ、やっぱそうなんですね。 まだ何もしていません。」
「なぜ?」
「聞いてませんでしたから」
「やっぱな。*5 もう時間ないぞ。」

そんな軽いやり取りの後、手続きの確認と、準備に奔走することになる。

帰国して2週間で日本の部屋を引き払い、大使館などでVISAの準備をして、
友人たちどころか親とも碌に話さないまま*6、タイに赴任になった。
赴任手続きの忙しさでいろんなことをよく考えられずにいた。

タイに赴任するということ、それ自体すらも、よく考えられないまま。

ちなみに、赴任したうえで、まだ自分のメインは業務システム開発だと誤解したままであり、
このプロジェクトが終わって保守が軌道にのれば日本に帰るものだと思っていた。

*1:なんという危機感知能力がなさ。 そんな事ではこの先生きのこれない。

*2:そもそもこのやりとり、今振り返れば「赴任してもやっていけそうか」という趣旨なのだが、悲しいかなたまたまうまく会話がかみ合ってしまっている。

*3:確かに言っていることはその通りで、バンコクは日本の下手な田舎よりよほど良いと思う。 ここでダメなら、文字通り海外では生活できないだろう。 日本食も洋食も中華もある。 一部では日本語も通じる。 日本のものも比較的手に入りやすい。 ただし輸入品になってしまうので、値段は往々にして約3倍だが……。 日本の値札で通貨がTHBになったような値段設定なので、 支払っているのはバーツなのだが、徐々に金額の大きさが日本円と同じ感覚になってくる。 例えば週刊少年ジャンプが213THB ≒ 650円であるのだが、650円とは認識せず220円ぐらいのつもりで購入している。 改めて考えると非常に高い。 なんだこれ。 高いじゃないか。

*4:そもそも何故タイの組織の書類を、日本の組織所属の私が作るのか? 通常ありえないこのオペレーションの理由は簡単で、 上長は私を赴任だと思っているのだから、赴任後の下地作りをしていたのだ。

*5:上長は部長が何も言ってないのではとずっと勘ぐっていたらしい。 その理由は結果としてダマタイになってしまった、その根本原因に起因している。

*6:進学も就職も一人暮らしも海外赴任も勝手に決めたから、親はよく「お前はいつも相談もなしに……」と嘆息している。 反対されたことはないが……親孝行はしておこうと、ここ数年思っている。